« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月の記事

2007年10月29日 (月)

俳句を楽しむ(昭和の俳人・作り方15)

前々回は明治の俳諧人、前回は大正の俳諧人、そして今回は昭和の俳諧人についてです。 昭和に入ると、ホトトギスの俳諧人の俳句は新しい展開を見せ始めました。 大正のホトトギスの俳句は、ロマンティックな大げさな言葉の乱用多く、表面的効果のみを追った俳句が目だつようになりました。 それで虚子はその行き過ぎを是正するために、写生の手法を説いたのです。 事物の正確な観察をし、的確な描写をしていない表現は読者に感動を与えないとのことでした。 この新しい指導のもとに登場したのが昭和のホトトギス作家 水原秋桜子(1892~1981)、高野素十(1893~1976)、阿波野青畝(1899~1992)、山口誓子(1901~1994)、中村草田男(1901~1983)等でした。 

.

大正ホトトギスの作家は遠景と近景の組み合わせで特に遠景を重視しましたが、(前回号参照)、虚子の指導のもと、高野素十などの俳句は近景の描写の重視になりました。 単純な描写にもみえますがその中に、独特な空間認識があり素晴らしいものがあると評価をされたのです。

  「蟻地獄松風を聞くばかりなり」  

    蟻が引っ張り込まれてゆく、虚空の無限の広がりがある。 

   「甘草の芽のとびとびのひとならび」  

    対象を凝視しスケッチ。客観写生の典型だと虚子賞賛。

.

昭和ホトトギスであった水原秋桜子は、高浜虚子のその指導・近景描写は、科学的描写だけで無味乾燥であると批判するようになり、ホトトギスを脱退し独立をします。 それに刺激されて、若い俳人達が「新興俳句」という過激な俳句革新運動を起こします。 秋桜子自身はあくまでも無季の俳句を認めず、俳句の題材を自然および自然と関わる人間の生活に求めたのですが、「新興俳句」の俳人たちは、無季なるもので革新的なものを追究したのです。 「新興俳句派」には、西東三鬼(1900~1962)、富澤赤黄男、篠原鳳作(1905~1936)、高屋窓秋(1910~)、渡辺白泉(1913~1969)らがいます。 

 水原秋桜子の俳句: 

 「わがいのち菊にむかひてしずかなる」 (新樹への気持ち) 

 「なく雲雀松風立ちて落ちにけむ」  (学究派の生物観察) 

 「瀧落ちて群青世界とどろけり」  (世界観を目覚めさす))

.

富澤赤黄男の俳句 (「新興俳句」派の代表格): 

 「靴音がコツリコツリとあるランプ」 

 「花粉の日鳥は乳房をもたざりき」 

 「窓あけて虻を追ひ出す野のうねり」

 日本人の共有の価値観の上だけでは表現が不充分として、誇張した表現を使っています。 そして 家柄・縁故などの日本的風習に反発し、運命たるものと戦おうとした特徴が「新興俳句」派の句にあります。

.

またもう一方、この「新興俳句」の人間観を批判して、永田耕衣や平畑静塔(1905~1997)などの俳人が、戦後に「根源俳句」の運動を始めます。 耕衣は、自分の運命を冷静に観察することが使命と考えて、「新興俳句」のように運命と戦うという態度はとりませんでした。  耕衣は芭蕉の方法論を見なおし、ホトトギス派の俳句観には疑問を呈したのです。 大衆倫理的で、蓄財を嫌い清楚に暮らし旅をした芭蕉の人生観に共感、ホトトギス派の簡潔な句には対抗的でした。 芭蕉は俳句の中で、人間の非力さ・運命の偉大さを知らしめようとしましたが、耕衣も事物の滑稽な側面を強調して、世界の本質を読者に考えさせようとしたのです。

 耕衣の句: 

 「田にあればさくらの芯がみな見ゆる」

 「後ろにも髪脱け落つる山河かな」

 「死螢に照らしをかける螢かな」 

 「落蝉や誰かが先に落ちている」

   以上は、ホームページ「俳句の歴史」を参照。

.

.

<俳句の作り方 15> 切れ字・添え字の使い方の添削

      善出版・山崎ひさを著「やさしい俳句」より

     下五における「つ」「き」「す」「る」「く」

「~~嶺々に充ち」→「~~嶺々に充つ」

           ・・・「つ」は終止形になる

「~見ずなりし~夜の長し」→「~~夜の長き」

           ・・・断定重複を避ける

「~乳たりし子の尻重し」→「~~尻重き」

           ・・・「し」の重複を避ける

「~~夕はやし」→「~~夕はやく」

           ・・・「し」終止形にならない

「~~取り戻し」→「~~取り戻す」

           ・・・   〃

「~~丈計り」→「~~丈計る」

           ・・・終止形には「く」「す」「る」

     上五における 切れ字「や」の使い方

「秋風の~~」→「秋風や~~」

           ・・・「や」の方が切れ字強い

「山頂の霧の中なる~」→「山頂や霧の中なる~~」

           ・・・   〃

「雪晴れや~光けり」→「雪晴れの~光けり」

           ・・・切れ字重複を避ける

「春愁や~遅きかな」→「春愁の~遅きかな」

           ・・・  〃

「~や~一羽を一羽追う」→「~の~~」

           ・・・上五が軽い修飾句

     一字推敲「て」は中途半端な切れ字

「爪切りて~~」→「爪切るも~~」

           ・・・「て」の切りは強過ぎ

「~別れて春の雪」→「~別れの春の雪」

           ・・・「て」句切れ強過ぎ

「~ふっくらと煮て冬立ちぬ」→「~ふっくらと煮え~」

           ・・・  〃

「~されて凍鮪(いてまぐろ)」→「~されし凍鮪」

           ・・・  〃 

「~鼻寄せ合えて~」→「~鼻寄せ合える~」

           ・・・  〃

     一字推敲「も」は複数をさし、ピントがぼける

「子も届く~~」→「子の届く~~」

           ・・・子供に焦点をおける

「~星も生まれけり」→「~星の生まれけり」

           ・・・星にに焦点をおける

「どの車窓も緑~~」→「車窓より緑~~」

           ・・・複数車窓は不要

「~寡婦の座になじみ」→「~寡婦の座にも慣れ」

           ・・・「も」の利用例

「~雨の音春きつつ」→「雨だれの音にも~~」

           ・・・  〃

     一字推敲「は」は説明になりがちで好まれない

「買初は~~」→「買初の~~」

           ・・・「は」では切れてしまう

「~野川は光り~」→「~野川の光り~」

           ・・・説明的を防ぐ

「~~下は草刈られ」→「~~下の草刈れる」

           ・・・後文は能動体へ変わる

「長き夜は~~」→「長き夜や~~」

           ・・・説明避け、句意鮮明に

「消燈までは編みをりぬ」→「消燈までの毛糸編む」

             ・・・主は毛糸を編むこと

.

.

4ヶ月間 俳句のブログをしてきました。  今回でもってこの俳句ブログ第1段のピリオドとします。 またときをみて、次のステップの勉強をしたいと思っております。  俳句仲間が早く増えますように願っています。

2007年10月24日 (水)

俳句を楽しむ(大正の俳人・作り方14)

伝統のある俳句雑誌「ホトトギス」は、明治30年1月に正岡子規、高浜虚子らが創刊し、110年経った現在も,合資会社ホトトギス社から発行されている俳句雑誌です。 夏目漱石が「吾輩は猫である」を発表したことでも知られています。 今回はこの「ホトトギス」に名を連ねた大正時代の有名な俳諧人の名前と、その俳句をみていきます。

.

俳句雑誌「ホトトギス」を当初高浜虚子が主宰したとき、数多くの有力作家を輩出しました。 その第1波が「大正ホトトギス作家」と呼ばれる俳諧人達で、村上鬼城(1865~1938)、渡邊水巴(1882~1946)、前田普羅(1884~1954)、飯田蛇笏(1885~1962)、原石鼎1889~1951)らがいます。大正ホトトギス作家の作品の特徴は、自然(山、谷、海、空など、スケールの大きい景色など)を永遠なるもの、神秘的なものとして表現しているところです。 その文体は古風で格調高く、そのような大自然に囲まれての人間生活を詠んでいます。

その中の代表的作家、原石鼎(はらせきてい)は辺境の地で生活をしていましたが、厳しい自然を俳句でもってとても美しく表現しています。(下記)

 「頂上や殊に野菊の吹かれ居り」  
頂上の野菊だけを描いた構図がすばらしい。
野菊以外の一切を省いてしまった構成が見事。

 「山の色釣り上げし鮎に動くかな」
   吉野川の上流丹生川で、全山緑の渓流で
   鮎が躍りながら釣り上がってくる状況伺える。

 「秋風や模様のちがふ皿二つ」
 「浜風になぐれて高き蝶々かな」
 「神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな」
   石鼎の創造力の根源は『出雲風土記』三千年の民族史
   それが、石鼎を自然を神秘なものに接近させている

.

「大正ホトトギス作家」ととき同じ頃、ホトトギスに「台所雑詠」と名づけた女性専用の投稿欄が設けられました。 そこに長谷川かな女(1887~1969)、阿部みどり女(1886~1980)、杉田久女1890~1946)などのすぐれた女性作家が登場したが、中でもとりわけ優れた才能を発揮し、新しいことに兆戦したのが杉田久女でした。 杉田久女の作風は、一つの俳句の中に主たるものをいくつか並存させるやり方でした。 光と闇、遠景と近景などという構成ではなく(大正ホトトギス作家の作風)、一句中に光と光、2つ光るものをおいて、強烈に自己主張をさせました。 また近代的で、女性的な句を沢山詠みました。 叙事・叙景の俳句は男性のようにはありません。(下記)

 「紫陽花に秋冷いたる信濃かな」
   紫陽花も信濃も、強烈な花名と地名である
 「戯曲よむ冬夜の食器つけしまま」
   戯曲を読む冬夜の妻のくつろいだ心持がある。
   近代文芸、西欧化の都会人の感覚が出ている。
 「雪道や降誕祭の窓明り」
   クリスマス、窓明かりの雪道をそりが通る。
   前句同様、近代風な感覚の句である。
 「足袋つぐやノラともならず教師妻」
   戯曲人形の家のノラのように、家出することもせず、
   我慢していく近代女性の感情。 小説的でもある。
 「花大根に蝶漆黒の翅あげて」
 「白豚や秋日にすいて耳血色」
   蝶の一瞬の動きを活動的に、白豚にもある特質を
   美しい詩にしている。優しい細やかさが出ている。
 「笑みとけて寒紅つきし前歯かな」
 「芥子まくや風にかわきし洗ひ髪」
   女性の美しさ、可愛らしさを句にしている。洗い髪
   は女性の美、寒紅の句は女性の笑みに使われた。

以上、「俳句の歴史」 と 「大正女流俳句の近代的特色」 を参照。

.

.

<俳句の作り方14> 俳句添削より学ぶ

「新20週俳句入門」(学習研究社:藤田湘子)より

    同じ言葉は繰り返さない:
「山吹や山迫りくる~」→「藤咲くや~」

    下五での字余りはよくない:
「高速道」下五で使用 →「高速路」

    2字もの字余りはよくない:
「君しのぶ高原」の中七 →「八ヶ岳みて」

    意味の重なりは避ける:
「春愁や君しのぶ~」→「春愁や~急停車」

    単純過ぎることばには味付けを:
「黄色い帽子通園児」→「黄色い帽の通園児」

    俳句らしい語句の使用:
「馬の嘶き都井岬」→「馬嘶ける~」

    「や」と「かな」併用タブー:
「黄桜や~の音遠くかな」→「~~遠くより」

    「や」と「けり」は使われるようになった:
「降る雪や明治は遠くなりにけり」

    季語の重複は避ける:
「桜をちらす春の雨」→「桜をちらす涙雨」
「水打って涼しき風に」→「水打って~喜ぶ」

.

このブログの目次は 下記ホームページ
 の「ブログ」項目よりご覧いただけます
   http://www.abcaiueo.com/

2007年10月 3日 (水)

俳句を楽しむ(明治の俳人・作り方13)

これから、明治の俳人・文豪の俳句を見ていきます。 今日は明治時代の俳人の俳句への考え方についてです。 正岡子規(18671902)、高浜虚子(18741959)、中塚一碧楼(いっぺきろう・18871946)、原 石鼎(せきてい・18891951)、杉田久女(ひさじょ・18901946)、高野素十(すじゅう・18931976)などが、明治時代で著名なところですが、今日はまずはこのうちから3人の考え方について説明をします。

     正岡子規:
芭蕉の高名な俳句を「芭蕉の俳句には、説明的かつ散文的な要素が多く、詩としての純粋性が欠けている」つぎつぎに批判した。 一方蕪村の俳句を賞賛し、「蕪村のはいくは技法的に洗練され、鮮明な印象を効率良く読者に伝える」と高く評価した。 そして、子規自身は西洋哲学を学び、文学・美術においては、事物の簡潔な描写表現がよいと確信し、「写生」の手法の重要性を説いた。 低迷状況にあった俳句界に、革新的な反響を巻き起こした俳人である。

                        氷解けて古藻に動く小海老かな

                        涼しさや松這ひ上る雨の蟹

                        汽車過ぎて烟うづまく若葉かな

.

     高浜虚子:
正岡子規が発刊した俳句雑誌「ホトトギス」は、子規の弟子の虚子に引き継がれた。 虚子の俳句作品と俳句観は多くの俳人の支持を受け、ホトトギスは膨大な投稿者数を抱える大雑誌に成長した。 虚子の俳句は固定した文体ではなく、多様であり、あいまいな響きを残すものを好んだと言える。 芭蕉のわざとらしい表現は好まず、簡潔な描写のものを評価した。 季語を大切にした俳人である。

                        白牡丹といふといへども紅ほのか

                        早苗とる水うらうらと笠のうち

                        川を見るバナナの皮は手より落ち

.

     中塚一碧楼:
5・7・5は文語体にはよいが、口語体は6音節・8音節が多くなじみ難かった。 文語体の常識に反旗を翻し、俳句に積極的に口語体を導入したのが中原一碧楼である。 17音節に捕らわれない「自由律俳句」の創始者である。 また一碧楼は俳句に季語を必須とするルールを否定し、また強力な指導権をもつ俳句雑誌の制度にも疑問を呈しました。 そして俳人は、個々の創意を重視すべきだと説きました。 彼は簡明な文体の中、事物への鋭敏な認識を盛り込むことに成功し、揺れ動く人間の精神を表現してみさました。

                        掌がすべる白い火鉢よふるさとよ

                        単衣著の母とあらむ朝の窓なり

                        畠ぎつしり陸稲みのり芋も大きな葉

.

.

<俳句の作り方 13> 五七五 自由律俳句

自由律俳句の作り方:

中塚一碧楼のいう自由律俳句は、詩らしさがなく、素人には却って難しく思える。 下記のような俳句がその一例ですが、わたくしは余り感動させられません。 みなさんは、如何でしょう。

 

美し骨壺 牡丹化られている

井泉水

分け入っても分け入っても 青い山

山頭火

せきをしても ひとり

放哉

月が夜 どこかで硝子がこわれる

鳳車

月の明るさは 音のない海が動いている

魚眠洞

余り薦められるものではありませんが、大凡の作り方を下記します。

(1)   五七五の音数律であるとか、季語を気にせず作ります。 長さ、音数は自由ですが、短すぎても長すぎても詩らしさがなくなりますので、大凡の音数は5音~22音くらいとされています。

(2)   文節の分け方は、前段と後段、前段・中段・後段といろいろですが、要は「詩情」が感じられればよいのです。

(3)   事象の一瞬の情況を、感じたままに表現すればよいことで、漢語をつかったり、象徴化・比喩化したりで、難しい言葉や観念を入れず、できるだけ分かり易い日本語を使う。 切れ字ですとか、「~たり」とか「~けり」とかの普段使わない言葉は使用しません。

.

俳句の五七五について:

俳句は上五、中七、下五(座五ともいう)の形からなっており、この原則の形を「定型」といいます。 定型での韻律もなかなかリズミカルなものですので、次第に身についていきますから、ゆめゆめ定型を崩して俳句をつくろうなどとは考えない方がよいと思います。

次に音数はどのように計算するかですが、長音は1字に数えます。 「コンサート」は5字・5音です。 拗音「ちゃ・ちゅ・ちょ」などですが、これは2字で1音と計算します。 促音「小さな‘っ’」ですが、これは小さくても1音に数えます。 従って「がっこうへ」で5音です。

これらの規則で作ろうとするが、どうしても出来ないことがままあります。 「字余り」「字足らず」「句またがり」「破調」といったものですが、これらは「定型」に収めようと努力してもできなかったものであり、「自由律」とは違います。 「自由律俳句」と先に述べましたが、、俳句で大切にしている韻律がまったくないので、これを「俳句」とは呼ばないとする俳人が多くいます。 できるだけ定型での作成をお勧めします。

ちなみに、「句またがり」と「破調」の違いですが、「破調」は「字足らず」と「句またがり」があるもの、「字余り」と「句またがり」のあるものをいっています。 「破調」は「定型」で作ろうとしたが、どうしてもその形にできなかったというもので、「自由律」のように大きくははみ出していません。 五七五の俳句の形は大切にしたいものです。

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »